『新しい市場のつくりかた』

ドラッカー曰く、ビジネスとは市場を創りだすことである。

それが豊富な実例とともに、心底、あぁ「こうあるべき」という社会の姿を思い描いて、それを商品やサービスで実現していくこと。それこそがビジネスなんだなぁと思える本。

例えばミシュラン。1900年にミシュランが最初に食事のガイドブックを発行したときは、まだ自動車の使いみちが社会ではっきりしていないときだったという。そこでミシュランがフランスの地方の美味しいレストランを紹介するガイドブックを出すことで、そこに行ってみたい、と思わせた。それが車の使い方の提案であり、それがひいてはタイヤを売ることに繋がると。実際ミシュランがガイドブックを出した国では、ミシュランのタイヤの売れ行きが3%伸びるというし、ブランド認知という意味合いもあるけど、本質は市場の創造だということ。

市場創造には4つのハードルがある。新しい市場を作るのは、新しい暮らし方、つまり文化であって技術ではない。なんでこうできないんだ? という問題意識がまず最初にあって、その次のハードルが技術になる。つまり、何が課題か、何が問題なのか、それを創りだす(見つけ出すというよりも、創りだす)ことが市場創造の最初のステップとなる。技術的に解決しても、それが社会で使われるにはインフラ整備が必要。例えばウォッシュレットならトイレに電気が来ていなければならない。実際ToToはトイレにコンセントを付けてもらうために相当住宅メーカーを回ったらしい。そして最後のハードルが認知。いわば広告。「私たちのお尻も洗ってほしい」というのは名コピーだった。

日本での実例として面白かったのは、プールでの水泳帽。この水泳帽の習慣があるのは、実は日本だけなんだそうだ。これは文部省が全国の小中学校にプールを設置しプール教育を取り入れていく中で、教師が生徒を指導管理しやすいように、水泳帽の色を変えたり名前を書かせたりして子どもたちを識別しやすいようにする中で始まった。これを仕掛けたのが、それまで布おむつを作っていた中小企業フットマーク(当時は磯部商店)だったのだという。

技術が先にあって、それを元に市場が創りだされるという例も多い。第一次大戦の時に開発された毒ガス対策のマスクのフィルターが、戦争が終わって大量に余り、それが市場に出されたものがティッシュペーパーなんだという。第二次大戦で米軍が蚊よけの蚊帳として使っていた合成樹脂のフィルムが、いまサランラップと呼ばれている。

企業は自社の製品の新しい市場を創りだすことが本来あまり得意ではない。著者はこれを「タバコ屋のおばあちゃんの論理」と呼ぶ。「昔よりタバコは嫌われているという言うけれども、相変わらずタバコが好きなお客さんはいてくれますよ。ただ、昔より年はとっているけどね」

東大の藤本隆宏先生の提唱する「設計情報転写処理パラダイム」も刺激的な概念。人工物、特に工業製品を作るというのは、人間の頭の中にある、こういうものがあればいいな、というイメージがだんだん形をとっていく、最終素材まで情報が転写されていくと考える。これが可能になるには、原料の均質性が重要だ。金属原料は化学原料は成分がいっしょで同じレシピで同じものが生産される。逆に、木彫の何か、とかステーキとかは原料が均質ではないため、同じレシピでは作れず、生産時に細かな調整が必要になる。ステーキに均質性をもたせたのがハンバーグだと書かれていて、なるほど! と思った。

第三世界では、固定電話の普及よりも先に携帯が普及し、ワイヤレスインフラが日常的に当たり前に使われているというのはたまに聞く話。似たような話で、米国でケーブルテレビが普及している理由はテレビ放送が始まる前から高層建築が発展していたからなんだそうだ。電波塔からの電波を高層建築が遮ってしまうので、番組を電波ではなくケーブルで送るのが普通になったという。

消費の発展段階は、ボードリヤールを一般化したはなし。貧しいときは我々は商品に経済性と機能性を求める。安くて丈夫、機能的に優れているものだ。次におしゃれであることが求められる。商品に意匠の価値が必要になる。さらに成熟すると、思い入れの対象としての「ブランド」が求められる。商品が持つ象徴、記号としての価値だ。「その商品を使用している自分に価値があるかのような思いを満たすことが要求される」というわけだ。機能から美、そしてステータスと商品の良さは変化していく。女房を質に入れても初鰹を食べたがった江戸っ子、フランス人はボジョレー・ヌーボーを買い求め、愛の告白にチョコレートを用いることをメリー・チョコレートとモロゾフが始めた。

一方で、このステータス・シンボルとしての商品の価値は、インタビューではまず出てこない。ハーレーダビッドソンは、社会的階層のシンボルとしての位置づけが強く、記号として消費されるものだが、インタビューしても「ハーレーの走りが、馬力がいいんですよ」と答えるものだ。ブランドものはたいていそういう構造を持っている。ステータス・シンボルが意味することが、必ずしも他人に見せびらかしたいとうだけでなく、自分が自分を見た時にかっこいいと思うことも含まれるというのが新鮮だった。

この著者の本、ほかには水泳帽のフットマークにフォーカスした一冊しかないのね。次作がでたらぜひ読んでみたい。

『これからの「カッコよさ」の話をしよう』

 なにをいまさら「カッコよさ」なんだよ? という思いとともに読み始めたこの本。

 でもカッコいいって、今さらだから大事なのかもしれない。「カッコつけることがかっこ悪い」という価値観が当たり前の中、カッコいいというのは、正義とはまた違った一つの価値観なんだと思う。たぶん「美」に近いのかな。

 それは正解が一つじゃないし、個々人ごとに違うものだけど、時代の空気として何が「カッコいい」のか何が「美」なのかはある程度方向が決まってくる。

人間の文化の歴史は、「生まれながらのカッコよさ」を無批判に肯定しかねない考え方との闘いの連続であり続けたし、それを今の時代に断ち切るようなことは、同時代に生きる人間として絶対に認められない

 筆者たちはこんなふうに書いてるけど、これは「正義」と「美」を混同した見方かもしれない。だけど、「生まれながらのカッコよさ」礼賛って、「美」の意識としては極めてプリミティブで、否定はしないけれど他人の美を拒絶するような怖さがある。

 ついでに「モノ」から「コト」へという今風に正しいテーマがあるけど、

20世紀の文化人たちは「モノ」は画一的で、「コト」のほうが多様だと思っているかもしれないけれど、いま実際に起きているのは逆で、圧倒的に「コト」のほうが画一的、「モノ」のほうが多様になっている。機能的にもデザイン的にもそうなんだけど、「モノ」によって人間の欲望は多様化していくということをもっと考えなきゃいけない。「モノ」に出会うことによって人間の欲望は新しく生まれるし、多様化していく。 

 これは面白い。

 「コト」が画一的、というのは、インターネットの普及で多様な考え方が認められるような世界になったかとおもいきや、実はその逆で、政治的に「正しい」こと以外は叩かれまくる、民主的全体主義みたいな世界に、特にインターネットがなりつつあるということ。

日本では全くロクなことにならなかった。ブログからは何も生まれなかったし、Twitterにはワイドショー的なイジメ文化、Facebookにはスノッブな自慢文化しかなくなってしまった。 

というのもそうだよね、と実感として思うし、

 ワイドショーの劣化コピーとして、週に1度「空気の読めない」「悪目立ちした」人間を袋叩きにしてスッキリする文化に成り下がっている。

というネットの動きもとっても残念だと思っているから。

 人間のカッコいい関連の思想の流れを追ってみると、まず「モダン思想」では機能が表層を表すといった合理的、効率的なことが重視された。その後の「ポスト・モダン」と呼ばれる思想の1つにボードリヤールの消費論がある。

 これは、

1.消費はモノの機能的な使用や所有ではない

2.消費は単なる権威付けや機能ではない

3.消費はコミュニケーションである

 というもので、つまりあるモノを買うことが他人に対して自分のライフスタイルを提示するメッセージになっていること。ボードリヤールはこれを「モノの記号化」と呼んだ。記号消費、なんていい方もする。そして、ここで出てくるのが消費者の「差異」への欲求だ。機能的に優れているというような差別化が難しい現在、微細な差異をどうつくり上げるかが、ポスト・モダン時代におけるモノのあり方になっていった。

 この差異をどう捉えるかだ。

 ボードリヤールそのままにモノは差異を消費するものになってしまった、と考えれば、自分のライフスタイルを見せるためにクロスバイクを買うのは、極めて普通のことだと思う。サブカルはファッションと著者たちが言っているとおり。

「サブカルはファッション、オタクはパッション」って言葉もあるけれど、文化左翼的なアプローチは結局、画一的な流行の、自分語りのスタイルしか生まない。オタクはそれとは対照的に自分の欲望に身を任せ、好きなものをひたすら追求している

 一方で、自分語りのためのモノじゃなくて、オタク的なアプローチは、単に「モノが好き」というところにある。これはこれでいいんだけど、思想的にはどこにつながるの? とも思うよね。モダン思想に戻るものでもないし、他人に対するメッセージになっているわけでもない。もしかしたら、ここから新しいオタク論につながっていくのかもしれないけど。