『これからの「カッコよさ」の話をしよう』

 なにをいまさら「カッコよさ」なんだよ? という思いとともに読み始めたこの本。

 でもカッコいいって、今さらだから大事なのかもしれない。「カッコつけることがかっこ悪い」という価値観が当たり前の中、カッコいいというのは、正義とはまた違った一つの価値観なんだと思う。たぶん「美」に近いのかな。

 それは正解が一つじゃないし、個々人ごとに違うものだけど、時代の空気として何が「カッコいい」のか何が「美」なのかはある程度方向が決まってくる。

人間の文化の歴史は、「生まれながらのカッコよさ」を無批判に肯定しかねない考え方との闘いの連続であり続けたし、それを今の時代に断ち切るようなことは、同時代に生きる人間として絶対に認められない

 筆者たちはこんなふうに書いてるけど、これは「正義」と「美」を混同した見方かもしれない。だけど、「生まれながらのカッコよさ」礼賛って、「美」の意識としては極めてプリミティブで、否定はしないけれど他人の美を拒絶するような怖さがある。

 ついでに「モノ」から「コト」へという今風に正しいテーマがあるけど、

20世紀の文化人たちは「モノ」は画一的で、「コト」のほうが多様だと思っているかもしれないけれど、いま実際に起きているのは逆で、圧倒的に「コト」のほうが画一的、「モノ」のほうが多様になっている。機能的にもデザイン的にもそうなんだけど、「モノ」によって人間の欲望は多様化していくということをもっと考えなきゃいけない。「モノ」に出会うことによって人間の欲望は新しく生まれるし、多様化していく。 

 これは面白い。

 「コト」が画一的、というのは、インターネットの普及で多様な考え方が認められるような世界になったかとおもいきや、実はその逆で、政治的に「正しい」こと以外は叩かれまくる、民主的全体主義みたいな世界に、特にインターネットがなりつつあるということ。

日本では全くロクなことにならなかった。ブログからは何も生まれなかったし、Twitterにはワイドショー的なイジメ文化、Facebookにはスノッブな自慢文化しかなくなってしまった。 

というのもそうだよね、と実感として思うし、

 ワイドショーの劣化コピーとして、週に1度「空気の読めない」「悪目立ちした」人間を袋叩きにしてスッキリする文化に成り下がっている。

というネットの動きもとっても残念だと思っているから。

 人間のカッコいい関連の思想の流れを追ってみると、まず「モダン思想」では機能が表層を表すといった合理的、効率的なことが重視された。その後の「ポスト・モダン」と呼ばれる思想の1つにボードリヤールの消費論がある。

 これは、

1.消費はモノの機能的な使用や所有ではない

2.消費は単なる権威付けや機能ではない

3.消費はコミュニケーションである

 というもので、つまりあるモノを買うことが他人に対して自分のライフスタイルを提示するメッセージになっていること。ボードリヤールはこれを「モノの記号化」と呼んだ。記号消費、なんていい方もする。そして、ここで出てくるのが消費者の「差異」への欲求だ。機能的に優れているというような差別化が難しい現在、微細な差異をどうつくり上げるかが、ポスト・モダン時代におけるモノのあり方になっていった。

 この差異をどう捉えるかだ。

 ボードリヤールそのままにモノは差異を消費するものになってしまった、と考えれば、自分のライフスタイルを見せるためにクロスバイクを買うのは、極めて普通のことだと思う。サブカルはファッションと著者たちが言っているとおり。

「サブカルはファッション、オタクはパッション」って言葉もあるけれど、文化左翼的なアプローチは結局、画一的な流行の、自分語りのスタイルしか生まない。オタクはそれとは対照的に自分の欲望に身を任せ、好きなものをひたすら追求している

 一方で、自分語りのためのモノじゃなくて、オタク的なアプローチは、単に「モノが好き」というところにある。これはこれでいいんだけど、思想的にはどこにつながるの? とも思うよね。モダン思想に戻るものでもないし、他人に対するメッセージになっているわけでもない。もしかしたら、ここから新しいオタク論につながっていくのかもしれないけど。